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文明開化がジュエリー文化を日本に持ち込んだ

ダイヤモンド 明治時代 ジュエリーブーム 西洋雑誌

明治時代に花開くジュエリーブーム

江戸時代末期に日本に入ってきたダイヤモンドですが、明治時代に鹿鳴館ができると一気にジュエリーブームが花開きます。鹿鳴館の舞踏会に出席するには、洋装を身につけたからです。江戸時代までは男性は裃(かみしも)にちょんまげ、女性は着物で日本髪を結っていましたが、明治時代は洋装を身につける人が少しずつ増えていきました。特に女性はそれまでは人前に出る機会が少なかったのですが、社会進出の場面が増えていきます。それと同時にドレスやローブ・モンタントなど胸元を出す衣装が流行り始めます。それに合わせるためにネックレスや髪飾り、指輪などを身につける女性が増えていきました。日本でもついに宝石を装飾品として使用する時代がやってきたのです。文明開化の幕開けと同時にジュエリー文化も発展していったのです。

日本初のファッション誌にも登場

江戸時代から明治維新にかけては、日本が大変革を起こします。それを後押ししたのは、日本で初めて刊行された雑誌でした。『西洋雑誌』と命名されたこの雑誌は、1867(慶応3)年に創刊号が発行されています。誌面は西洋の学術記事を翻訳したものが多く、西洋の学問や文化を広く紹介しています。その中でダイヤモンドの紹介もしているのです。当時からマスコミが時代の先取りをしていたことがわかります。 また、明治維新で刀を持つことを禁止する廃刀令が出されると、刀職人は職を失ってしまいます。そこで、技術を生かして彫金などの技術を磨き、ジュエリーの加工を始める人が多かったといいます。そういった動きも、日本でジュエリーが広がる背景になったことがわかります。長州藩では毛利家がダイヤモンドを使った指輪の製作を依頼したという記録が残されています。武士が刀を捨てて、洋装をまとい、ジュエリーを身につけるようになった先駆けだといえます。

金色夜叉でダイヤモンドの知名度がアップ!?

日本でダイヤモンドが庶民にも知られたのは、尾崎紅葉が書いた「金色夜叉」がきっかけでしょう。この小説は学生だった間(はざま)寛一が下宿先の娘・宮と結婚の約束をしますが、大富豪の富山が宮を見初めてプロポーズをします。富山の自慢は大きなダイヤモンドでした。二人の婚約を知った間は宮に思いとどまるように説得します。しかし、宮の気持ちが変わらないことを知り、熱海の海岸で「ダイヤモンドに目がくらんだか~」と蹴ってしまいます。その場面は銅像にもなっています。明治時代に発表されたこの作品によって、ダイヤモンドは日本で一気に知名度を上げたのです。 ただ、当時のダイヤモンドは、まだまだ庶民には手が届かない存在でした。

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